昭和53年5月23日 親先生月例祭御教話



 「信心の道を迷わず失わず末の末まで教え伝えよ」と、信心の道。間違いなく子供にも孫にも伝えていけれる信心とは、どういう信心をいうのであろう。 
 今日は、中村徹美先生が前講をつとめておられました。まあ、前講という前講の挨拶のようなものでした。まあほんとに何分かでしたですけれども、私は、あちらへ下がらせていただいてから「今日は徹美さん、ほんとに有り難いお話だったよ」と言うて、また事実私、あの一口のお話を、まあい
うならばあれは枕?でしょうね、お話の。で、あれから自分の今度体験が、まあ語られるといったようなことにならなきゃならんのでしょうけれども。いうなら、その挨拶のところだけでしたけれども、もうほんとうにあの有り難いお話だった。皆さんはどう感じられたでしょうか。
 何にも分からない私がね、お道の教師としてお取立てを頂いて、一年間学院での修行、そして、外への教会の修行に参りましたり、まあ今日、毎日信心の稽古をさして頂いておる。
 何にも分からなかった私が、まあ、どんな場合であっても有り難いという心が頂けれるという事。そんなに気持ちが良いとか有り難いことばっかりじゃないのですけれども、不思議にそれが有り難いと、ね。そのことがまあ、有り難いのだと。
 ですから、今日中村先生がお話しましたような生き方で信心が進めますならば必ず御徳も受ける事でしょう。そういう信心なら、いよいよ子にも孫にも伝わっていく信心だと思います。
 お願いをして、こういうおかげを頂いたと、有り難いお話ですけれども、それではやはり、信心の道ということにはならない。信心の道というのは、どこまで自分が有り難うなっていく道を辿らせていただくということ。それは、何処におっても、何を聞いても有り難くなれるという、そういう道を習わせて頂くのが信心。
 そこで、お道の信心を頂きたい、分かりたいとまあ、願いを立てます、発願いたします。お道の信心を、いよいよ分かりたいということになってまいりますと、何というても「天地日月の心になること肝要」と仰せられますから、その天地日月の心を心として、いつもそれを目当てにして信心の稽古をさして頂くんです。
 そりゃいろいろな時がありますけれども、天地日月の心になることの稽古をさして頂いておりますから、ああ、あれも御神願、これも神愛と分からせて頂くのですから、有り難くなれるんです。その有り難くなる、その有り難いという心でキャッチするところのおかげ、これは限りないおかげに繋がっていくおかげを受けていくという信心。そういう信心でないと、いわば、信心の迷わず失わず、もう迷うということがおこらない。信心しておって、どうしてと。
 今日も朝の御祈念の後に、ある方が、ある方があの善導寺の久保山陽子さんです、今度の新総代です。お里のお店の方を今お手伝いさせていただいとります。女店員さんが非情に熱心に信心を求められる。求められるけれどもその求め方が、どうしてどうしてということばっかり。信心をしておられてもね、亡くなられたり、信心をしておられても怪我をされたり、というような質問をしてくると、こういう事でございます。
 結局信心とは、ご利益を受けること、おかげを受けること思うておるからそういう質問になってくるんです。信心とはどこまでも、いや金光様の御信心は、天地日月の心をいよいよ分からせてもろうて、天地日月の心にならせて頂く精進をすることが信心だと。で、今日久保山さんに話した事でしたけれどもね、とにかくあの、親先生の話をしなさったらどうだろうかというて話をしたことでした。いわゆる私の話をしたらどうだろうかというのです。
 まあ、皆さんは知りませんけれども、もう大坪さんがおかげ頂きなさらんはずはなかと、言われるくらいに一家をあげて熱心に、いわば信心をしておりました。それでも、なかなか貧乏が続く、次々と難儀な事が続いてまいりました。もうほんとに信心すればどうしてあんなに貧乏せんなならんだろうかというような、また不幸な事が重なるだろうかという事が続いて参りました。
 けれどもそこをね、信心で頂きぬかせていだいたところに、今日の合楽があるんだと。あれだけ沢山の人が助かっていくことになってきたんだと。ですから信心しておるから雨も降らん、風も吹かんということではない。その雨も風もまた、難儀災難もです、みんな神様のおかげであったと後に気付かしてもらう。それをね、後で気付かしていただいたんでは、その間が苦しい。そこで信心の道を分からしてもらう。そこには、いうならば、神願有り難し、神愛有り難しとして御礼の言えれる心の状態。
 今日、撤美先生がお話をしておるならば、その事を一口お話したのじゃないだろうかとこう思います。何にも分からなかったけれども、おかげを頂く道じゃなくて信心の道を一年間みっちり稽古させて頂いた。また、それを今日もそれを限りなく続けている。そこからいうならば、私のような者でも神様がお道の教師にお取立ていただいて、というてなら、まあ、けっこうずくめの事はしてないのだけれども、その中から有り難いという、有り難いと思う、有り難いと感ずるおかげが受けられると言っておるわけでございます。
 そういう信心で、それが信心だ。いうならば、何を信心するかというとね、天地金乃神様のお働きを信ずるという事。天の心地の心が様々な角度から説かれます。まあそれも限りがありません。もう広大無辺の天地の親神様のお心を語るということは、とてもとても一言二言で言えることじゃない事を合楽では、まあ、いわば簡単に天の心とは、もう限りなく美しい心、無条件に与えて与えて止まない心なんだと、まあ簡単にこう言う。だから簡単に教えてもらうから、簡単に自分のものになるかというとなかなかそうではない。美しい心どころではない、無条件どころではない、条件が一杯。その条件をはずしていく、その汚い心をはずしていって初めて奉仕の生活。いうならば、無条件の奉仕ができるようになる。その間には、いよいよもって地の心の信心が出来る。
 信心辛抱と教えられるが、ほんとに辛抱の出来ないようなところもあるのだけれども、辛抱していくうちに段々おかげが受けられる。
 先日、毎朝朝参りをしておられます加藤さんという電気商を手広くやっておられる。奥さんがだんだん、こう目が見えられなく、もう全然見えられなくなっていってしまった。それでまあ、合楽にお参りをさして頂いて、それこそ目くらが目が開き、ちんば立つというような話を聞いて、まあお参りをしてこられるようになって、もう随分になります。
 ところが、肉眼の目は開きませんけれども、心の眼が開いてきた。心の眼というよりも心眼、霊眼と言った方がいいかもしれません。もうそれももう、そのいつもね、カラーで頂かれる。
 先日も神様から頂かれたことの中に、頂きすぎだと、ね。いわば、消化不良になておる。毎日毎日神様から素晴らしい教えを頂くけれども、それをこなしえないでおる。それでその、大根卸しを一生懸命擦っておられるところを頂く。だから大根卸しを頂かしてもらうと、その頂きすぎが、シアスターゼと言われますから、胃の捌きが良くなる。信心でそれを頂くということはどういうことであろうか。
 そういうふうなおかげがございましたから、私は、そらなら自分でよく練ってみなさい。まあとにかくヒントだけ与えた。大根というのは、大きい根と書いてある。てもう、まあ一日いろいろ考えられた、ね。なかなか分からない。
 私共がね、神様がね、大きなおかげを頂くために、大きな受け物を作れよという働きが起こってくる、様々に。願いが大きければ大きいだけ、やはりおかげの受け物も大きい。作らせて下さろうとする働きが起こってくる。
 だから、例えば教えをひとつ頂くにいたしましても、それをこなしていくという事は、なかなかこなしが出来ません。いうなら耳だけが肥えて、心が肥えないでいく。そこで、なら大根を音、そこで神様がね、いうならば、大きな鮮やかなおかげを頂くために、大きゅうなれ、大きゅうなれと神様が言うてござると分からせて頂いたらね、例えば辛抱できないような事でも辛抱が出来る。このようにして、いうならばおかげを下さるという事になる。
 不思議な事に、それをそういうふうに分からせてもらうと今までこれにつかえておったものも、いうならば心配も、不安も、また腹の立つような事でもイライラする事でも治まってくる。そういう、いうならばおかげを、いいや、そういう稽古をさせていただくということ。なかなか皆さんの場合でも惜しい。いうならば、教えが行じられない。教えが身につかない。それは結局おかげが頂きいたいという願いが強いからだと思います。
 信心を頂きたいという願いであったならばです、どういうような場合であっても、中村先生じゃないけれども、ずーと目をつぶって考えると神様のおかげである、いうならば大きゅうなれ、大きゅうなれという神様の願いである。神様の、いうならば神願であり神愛であると悟らしてもらう。
 信心とは、何を見ても何を聞いてもどんな場合でも有り難いという答えが出てくる稽古をすること。それが取りも直さず天地の心であります。そこで、いうならば日月の心、いうならば実意丁寧神信心と言われております。いよいよ心行であり、家業の行であり。今日も一日家業の行をさしていただくという願いを以ってすると、都合の良いことばかりじゃないですけれども、ハアこれが行だとして受けていけれる。そのために心細かに心行をさして頂かなければならんという事になります。どうでもひとつ信心がね、有り難いものになっていくおかげを頂きたい。
 今朝から私は、こういうお知らせを頂いた。昔も同じような事を頂いたんですけれども、今日のは全然内容が違う。大田道灌という人がおりますね。それこそ、文武両道に秀でたあの江戸城を、いわゆる築城したという人です。この人は、学問の道はあんまり志さなかった。それこそ文武両道というけれども、武の方だけ、ね。いわゆる強い侍になることだけに心掛けて、その日も丁度、なんか鷹狩かなんかに行って、帰りににわか雨に遭った。一軒のみすぼらしい家に寄らしてもろうて、身の笠の、いわゆる笠を貸してくれという所願をされた。中から出てまいりました娘さんがね、一度家に帰ったかと思うと、お凡の上に一枝の山吹の花をお凡に載せて持って来た。
 笠を貸してくれと言うたのに、こんな花ども持って来てと言うて、まあ帰ってその話を、最後のところがね、それは昔の歌にこういう歌がありますと言うて家来が教えてくれた。「ななえあえ 花は咲けども 山吹の みのひとつだに 泣きぞ悲しき」という歌があります。おそらく貴方が蓑(みの)を貸してくれと言われたけれども、貸して差し上げる蓑ひとつない状態でございます、ということを言葉では言わずに、いわば花に託してお応えをしたのでございましょうという説明をした。
 もうほんとに家来の前でそのことを聞いて、恥入った。学問がない、勉強がないという事はこんなにも恥ずかしい思いをしなければならん。それから勉強をしだした。そして文武両道の秀でた、いわば武将として、今に名が残るということになった訳です。
 私はその「みのひとつだに悲しき」というのをね、今日は「実がない」と頂いた。あの実意の実という字は「み」と読むでしょう。実のひとつだにない自分の心。ほんとに自分は実意がない。実がない。口だけではこんなことを言ってるけれども、心には自分は実がない。なるほどこれではおかげが受けられないはずだという事であります。
 いうなら徹美君の今日のお話なんかでもです、自分のようなものがということはです、信心の稽古はさせて頂いておるけれども、じつのところは実がないがない自分というものを分からせて頂いていくと同時に、天地日月の心、こういう時には天の心、こういう時には地の心にならせて頂く為には、どういう信心をさせて頂いたらならよかろうかということになる。
 天の心、地の心を、まあ、曲りなりにも行じさせて頂く、そこから生まれてくるところの信心。自分のように実のない、自分のように、まあいうならばつまらない自分でもこういう有り難い心の状態を開かせてもらう事が有り難いことだということになる。
 神様がいろいろと、いうならば心を開いて、信心は悟りだと言われておりますからね、心にそういうひとつの悟りのようなものが開けてまいりますと、今までいうならばモヤモヤしておったものがスッキリとする、腹が立つのがかえってお礼を申し上げたい心が生まれてくる、難儀と思うておった事が、ほんとに神願である。
 今日箱崎教会の佐田先生とこの御信者さんが一緒にお参りになっておられます。もう今日は、先生と、安武先生と三人でお参りさして頂きましたが、今朝方お夢ん中に、合楽にお参りをしとる、それが何か分からんけれども大変有り難い、重たいような有り難いものを背中にかろうてお参りをしとるところを頂いた、とこう言う。今日のお参りはもう、一際、一入有り難かったというお届けが先ほどございました。
 先だっては、「これからははおかげになる」ね、でしたかね、「これがおかげになる」というようなことを頂かれる。「これからは」というのは、和賀心の「和」である。「これからが」というのが「賀正」の「賀」であったとこう言う。こういう中にあっても和の心を、喜びの心を頂いていけば、もうこれを境に、こえからがおかげになる、これはおかげの元になるということになるわけです。
 もう信心は、もうそれに極まることなんです。お道の信心をさせて頂く、いうならば信心の道をいよいよ迷わず失わず末の末まで教え伝えさせて頂くために、まず自分自身が間違いのない信心を頂かなければいけない。信心とは、とにかくお道の信心を志すならば、まず天地日月の心が分からなければいけない。いうならば神の心を心としなければいけない。しかも目指すところは生神である、ね。
 生神様を目指して、天地日月の心を心としての生き方を身につけていく。それが、なら合楽では合楽理念によるところになりますと見易う、しかも有り難く楽しゅう行じていけれるという信心、ね。とにかく天地日月の心を心とする生き方をすれば、もう必ず和賀心が生まれてくる。いわゆる和らぎ賀ぶ心が生まれてくる。天地日月の……、おかげは和賀心にあり、生神金光大神一心に願え おかげは和賀心にあるという天地書附を基軸にしてということは、天地日月の心を心とする生き方からしなければ生まれてこない。だからここは天の心で受けなければならない、ここは地の心で、ね。それが受けられない、それは日頃日月の心になることの精進が足りないからだということになります。
 神様がほんとにおかげを頂かして下さるために、いつも山吹の花を差し出しておって下さるんだけれども、誰-ん山吹の花てんなんてん頼みもせんとに山吹の花どん持って来てというようなことになってくる、ね。自分の勉強不足である。これによって何を神様が悟れと仰っておられるかということをね、悟らせてもらう。そこから心が開けてくる。しもその開けてくる心というのいうのは、限りがない。
 今日福岡の伊藤さんという方がお参りをして見えられました。して、今朝から御夢を頂かれた。それはもう面白い、不思議な御夢でしたと。どういう御夢でしたかといいましたら、鳳啓介と恋愛中という御夢でしたと。そのことが、もう合楽にお参りしようと思うと感動が湧いてくる。親先生のことを心に描くともう涙がこぼれる。そういう事だと思うんですよね。なら、どうしてその伊藤さんだけが鳳啓介との恋愛中であり、目をつぶれば合楽にお参りしようと思うただけでも感動が沸いてくる。親先生を心に描いただけでも涙がこぼれる。どうしてだろうか。ね。
 もう信心は随分長いです。まあこの人ばっかりはこんなに分かりなさらんじゃろうかと、まあ御導きをした人が思うたり言うたりするくらいであったけれども、最近の伊藤さんの信心というのは、もうほんとにめざましい。もうできるならば合楽に浸って修行でもさしていただきたいような願いを持っておられる。ね。
 私は鳳啓介ということを、ね、私の事だと私は思うのです、ね。日のあたる 外に出よと 吾呼びて……、とにかくあの、小鳥らが黙って、あのさえずってないという(笑)意味のことがあるんですよね。
 それは、私が中近畿の方へお話に行く。そういう事が、その歌の中に託されておる。今の金光様の歌なんですけれども、私を外に出でよと。いわゆる日の当たる外に出でよと。合楽の信心が陽の目を見るためにも出らなければならない。そして、もしお前が話を始めたならばね、もう小鳥達はもう黙っていしまうぞという事なんです。だから小鳥というのは、いうならば小さい心の人達のことを言うのじゃないでしょうか。大鳥というのは、やはり大きなという意味だなと。恵まれた人。鳳啓介というのをそういうふうに頂いた。
 只今、だから親先生と恋愛中、といったような心。目をつぶって、えー、合楽にお参りをしようと思うただけでも、感動がわく。親先生の事を思うたらもう涙がこぼれる。そこに、いうならば親先生との交流であり、天地の親神様との交流が生まれて来る。そういう心がどういうようなふうにして起こってきたかというとね、合楽建設の願いが立てられると同時にです、もうそれこそ、もうそれこそ十年がかりで、一生懸命に自分がね、自分の身につけるものは、もう一切自分のものを買うようなことはいたしません。無駄を省いた上にも省かして頂いて、合楽建設のお役に立ちたいという願いを立てられた、そこからそういうものが生まれてきた。
 天地の親神様の事をです、思うというか、それが実をもってそう思うた、ね。いうなら実があるです。言うだけじゃないです、ね。もうそれを思うたことも実ならば、それを行うことも実なんです。ですからね、神様が感動ましまさないはずがない、ね。向こうが思うならば、こっちも思わないはずがない、ね。
 先日からもう、ある、まあ難儀な病気しておる方がお参りをしてまいりました。もうここまでゴソゴソ這うてこんならんような、ちょうど研修の時でした。そん時に、えー、肺がんでおかげを頂いたという絵描きさんが、そん見事な絵を描いて奉納しておる。大きなお供えがしております、ね。それの次に、また大きな額をもってお供えに来た。そらもう大きな馬連菊の菊を、こう額にした物でございました。なんかそういうひとつのリズムに乗りきっておる時でしたから、私はここにお参りしてきた時に、竹野さんという方ですけれども、「竹野さん、あなたが私に命を懸けるならばね、私もあなたに命を懸ける、しかも一生懸ける、これが一生懸命だよ」、ね。「もうほんとに、一生懸命ということはね、あなたに命を懸けるということの、一生、命を懸けると書いてあるでしょう」。そらどこに懸けるかというと、貴方に懸けるんです。
 だから私も貴方に懸ける、貴方も私に懸けなさい、もう絶対おかげ頂くよ。もう帰ってから、もう便所のお掃除から、もうごそごそ這わなん人がおかげを頂いて、その翌日電話が掛かってまいりました。もうほんとにあの御理解を頂いて元気づいた、ね。そして、今までしなかかった、もうじーっと、悪うなるごたある、ね。それがおかげを頂いて、まあその便所のお掃除までさせて頂いた、お風呂にも入らせて頂いたというようなおかげになってきた、ね。
 一生懸命ということはね、一生命をあなたに懸けるという事。いうなら伊藤さんの場合には、もう一生神様に、いわば命を懸けるというような願いが立てられたその時点から、ね、有り難うなってきた、信心が有り難うなってきた。合楽にお参りしようと思ったら感動が湧いてくる。親先生を心に描いただけでも涙がこぼれていくことになってくるのです。
 だから私どもの信心がね、その一生懸命が足りないのです。それもね、信心で一生懸命ならなきゃいけんのです。信心を、いわゆる神様に懸けるのです。親先生に懸けるのです。鳳啓介に懸けるのです、ね。その鳳啓介と只今恋愛中、そこから、いうなら結合ということになり、そこから産みなさされてくるところおかげが、もう限りないおかげにつながってくるということになるのです。
 そういう信心でなからなければ、私は子にも孫にも伝わってはいかない。お取次を頂いてお願いをする、もう不思議なこげなおかげを頂いたよというだけの信心ではです、そんなら信心しよって、どうしてこういうことが起こるかといったような質問にもなりかねないのです、 ね。
 だから、何処までも信心を頂く、しかも頂くならば、ね、一生を貴方に懸ける、そこに神様もまた、一生貴方に命を懸ける、いわゆる命を懸け合うところにです、ね、ほんとの合楽世界の顕現があると思います。  どうぞ。